2011年

7月

04日

『現代哲学の岐路 ―理性の運命』


 哲学史はシェリングやヘーゲルが始めたもので、それを学問のかたちに仕立て上げたのが新カント派だったという。西洋にはこういうものがあると、日本に最初に輸入されたのは、これ以降のもので、ヴィンデルバントという人の哲学史だった。新カント派は狭い合理主義で哲学史を整理されたものとしてしまったのだという。
 しかし、ご本尊のカントが問題にした「物自体界」と「現象界」は、狭い合理主義に収まるものではなかった。
「物自体界」というのは意志の支配する領域で、「現象界」は知性、つまり表象能力の支配する領域のことだが、この二元論は、ライプニッツが「単子論」で単子(モナド)の属性とした「意欲」と「表象」の継承なのだという。
 ライプニッツは表象より意欲が優位と考えた。
 ショーペンハウアーの「意志」と「表象」、ニーチェの「ディオニソス」と「アポロン」も同じ事なのだが、この「意志」とは「生への盲目的意志」であり、暗い無意識の衝動であって、人間はこれに生かされているのだと考えたのはショーペンハウアーだった。
「盲目的」とか「無意識」というと、大阪の、いや、一般的なオバチャンの性質のようだが、人間がそうなのだという。
 新カント派はこのあたりを見落としてしまったのだという。だが、意志とか意欲とかいうのは、見落としのない知性にとっては、つまりそういう、本能というか動物的というか、そういうものなのだろう。
 人間が意志を持つのではなく、意志が人間をつかまえて放さないのだ。
 そして、理性は高度な認識能力といったものではなく、絶対的な真理把握の能力の事なのだという。
 理性は認識される側の存在の秩序をそのまま把握する能力であり、もっと言うと、神の力の事なのだ。
 理性=ロゴスは、ヘレニズム期のストア派にとっては、宇宙全体を貫通している理法であって、スコラ哲学にとっては、大いなる理性としての神が世界を創造したのだから、世界は神の理性を分有しているという風に考えたのだという。
 また、デカルトにとって理性は真偽善悪を弁別する能力で、理性を分け与えているのは神なのである。
 うーん、そうすると宮沢賢治の「うそとほんとうを見分ける」というのも、つまりは理性のことだったのかなどと、横に逸れそうになるが、話を戻すと、フランス革命の思想であったフランス啓蒙思想は、非歴史的理性を信奉していた。
 これに対してロマン主義は、歴史的伝統、民族性を尊重した。
 カントの世界は自然的な神の世界だったが、ロマン主義を通過したヘーゲルの世界は歴史的な人間の世界だった。
 ヘーゲルはアダム・スミスから労働概念を借りて来て、労働を通じての主観と客観の相互媒介を弁証法と考え、歴史を弁証法的過程として見た。
 弁証法的理性が、歴史的理性なのだ。
 理性と神、意志と人間、そういう問題が継承され、とらえかえされ続けているわけだ。
 そうした見取り図が深い理解とともに、この本に示されている。
 本書は現代思想の本であるが、一時期流行した、あの「現代思想」の解説書ではない。フランス現代思想の問題意識は本書から的確に把握できるけれども、もっとはるかに正攻法の本である。
 ニーチェが、プラトン以降、プラトン的思考様式によって規定された文化形成の伝統をニヒリズムとし、これがヨーロッパの歴史を根本から規定している歴史的運動であるとしていたという本書での指摘に触れると、フランス現代思想がニーチェを問題とした理由がよくわかる。
 本書は生松敬三と木田元の対談だが、これほど成功した対話作品はあまりない。はじめは中公新書の一冊だったが、後に講談社学術文庫、講談社メチエで出版されなおした。
 中公新書の時には『理性の運命』がタイトルで、「現代哲学の岐路」は副題だったが、後の出版では、これがひっくりかえっている。
『理性の運命』というタイトルは、とても象徴的で、本書の主題をよく表している。