2011年

7月

07日

『新版 雑兵たちの戦場 中世の傭兵と奴隷狩り』


朝日選書777
藤木久志著
 古代から中世、戦国時代、戦争で人狩りが行われた。戦争に参加した雑兵(武士)たちによって、非戦闘員が捕らえられ、その人々(女子供を含む)は奴隷として売られたのである。
 買い手の中にはイエズス会と結んだポルトガル商人もいた。宣教師とポルトガル商人の手で、日本人が東南アジアに売られた。
合戦は、農作物の強奪、破壊、人間狩り、物品の強奪をともなうものであった。いや、そうした掠奪目的で合戦に参加する者たちも多かったのである。

戦闘そっちのけで掠奪に走る者もいた。また、掠奪は当然の行為であったから、それを主目的としない一般の武将たちも、掠奪人狩りをやらなかったわけではない。
 戦争における財産形成は掠奪によってなされたし、戦費も掠奪によって賄われたのである。
 日本において奴隷売買の禁止は古くからの国法であったが、現実にそれが守られるには、豊臣秀吉の天下統一を待たねばならなかった。しかし、それも国内に 限られており、豊臣秀吉の軍勢が侵攻した朝鮮で、捕まえられた朝鮮人は、日本に連れて来られ、ポルトガル人に売られて行ったという。
 こうした側面から中世の戦争の研究が行われるようになったのは、この二十年ほどの事らしいが、成果を目にできるようになったのは、もっと最近の話である。
 戦国武士などというものは、こうした略奪者であり、少しも立派なものではない。だから武装した農民たちによって反撃され屍をさらす者も多かった。
 武士の軍事力を長期間にわたって寄せ付けなかったのは、加賀の一向一揆だけであったが、その一揆もこういう背景において戦われたのである。
 武将たちが人身売買に手を染めてまでイエズス会と取引したのは、硝石が欲しかったからである。火薬製造に必要な硝石は、日本では産出しなかった。弾薬の あるなしは、戦闘の勝敗を分けた。戦国時代というと、ドラマでは甲冑が出て来るが、弾丸よけになるわけでもない、重いだけの甲冑など棄てて、戦闘は裸で行 われるようになった。戦争など身も蓋もないものである。
 キリシタン禁止には、こうした歴史があった。徳川政権は、人身売買をやめさせ、武器を徹底的に制限する事で、平和を築いたのである。この政策は徳川政権 のものであったが、全国的な無言の支持があったはずである。徳川三百年の安定は、徳川家ごときの力だけでありえたはずがない。
 銃器が使えなくなった後、剣術がたしなみとなる。元々の剣術は、旅芸人や河原乞食の芸と違いのないものだった。だから武芸なのである。武芸を趣味とする 武士もいたが、戦場での主要武器は銃、弓、槍、長刀だった。剣は肩に担いで行って、相手に叩きつけるのであり、それから組み打ちに入り、最後は千枚通しで 刺し殺すのであった。
 剣術使いが、名のある武士に試合を申し込んだところ、指定した場所に陣を組まれたという話を中里介山が紹介している。これが戦場というものであり、武家だというわけである。
 武士が剣術をたしなみとするようになるのは、芸能者と武士の出自が同じだったからであろう。能と武芸は身体術において同一である。
 武芸剣術は江戸時代を通して絶える事なく伝承され、広まっても行った。ただし、町道場で剣術に打ち込むのは、百姓であり、商人であり、町人であり、やくざ者であった。
 落語に、町人が非道な武士を斬る話がある。武士の首が飛ぶという凄い話だが、落語の客である町人や裏店の住民たちは裏付けもなく、これを喜んだのではなかった。明治維新の時、武士だけでは戦闘力にならないため、博徒、町人、百姓が動員される。
 維新後の反政府運動の大きな流れである自由民権運動も、運動そのものの中枢は元武士階級であったが、下支えをしたのは博徒であった。
 日本人の精神性は武士道であるなどという、まったく無根拠な妄想である。人口比でいっても、武士などが日本人を代表できるほどいたわけではない。日本人は百姓であり、日本は百姓道の国である。
 武士など、日本人のくせに日本人を奴隷として売買した薄汚い者たちの末裔であった。それが階級として消滅したという事は、まさしく歴史の進歩であった。