2011年

8月

13日

安全って何だ?

  原発事故をふまえて安全という事を考えてみたい。

  まず、政治的には、原子力発電は完全に「危険」な問題となっている。

  臆病な政治家の一人が電力会社に危険を減らすためのヤラセを持ちかけ、かえって危険な状態に陥ってしまったのは、この事をよく示す事例と言えるだろう。

  その反対に、経済的には、原子力発電を停止させる事の方が完全に「危険」だ。日本経済は、電力供給削減という、大きな制限を課されてしまっている。

  では、政治的な側面以外に、原発を止める事で確保される安全が何かというと、被曝の危険だが、この危険の度合い、つまり、リスクがどれだけ確定されているかというと、かなりあやふやだ。

  政府が、原発事故の処理作業をなさっている方々に適用する基準を徐々に引き上げているが、その理由のひとつは、基準の根拠が確定していない事にある。つまり、人に危険な事をさせて保身を図る連中が目先の都合でいじれる幅が、実はかなりあると考えられるようなのだ。

 この幅は、ありもしないリスクまで含んでいるらしいので、今は脱原発というようになった反原発派の多くは、ありもしないリスクで人を脅かし、悔い改めないと天が降ってくると言いながら教条を広めている事になる。

 善良な人々が地震と津波で衝撃を受け、原発事故で心を痛め、不安になっている時に、その動揺を利用して自己利益を追求しているわけだ。たいしたもんだね。

 だが、このリスクが確定していないのは、環境派のせいではない。原発を作って来た人たちがきちんとリスクを確定し、リターンと比べ、リターンの方が大きいと説明し、人々を説得する手間を省いて来たからだ。「科学」だから絶対に「安全」だなどというお題目を考えついたのは、元をたどれば共産主義者だと思うが、それを拝借してここまで来たわけだ。

 絶対安全なんて、それこそ絶対に言えないというのが科学的な考え方だろうと思うが、それでは人を説得できないというわけなんだろう、「安全神話」が作り上げられて行った。

 日本人は国際的にものわかりのいい国民だ。それなのに説明責任を放棄するという態度は、官僚の水準の低さだ。彼らは国民を馬鹿にしているが、馬鹿なのは自分たちなのだ。

 まあ、その結果、一度事故が起きると、今度は「危険神話」が跋扈しはじめるのは、反動としては、なかば当然の事だろう。

 しかし、本当は、ここのところがしっかりと確定し、議論が煮詰められていなければならないところだと思う。結論は出ないかもしれないが、判断の根拠となりうるところまでは議論できるはずだ。手を抜かず、きちんと議論すべきなのだ。

 ツイッターにも書いたけれど、今、原子力発電所を止めても、元々、どれだけあったかわからない原発事故のリスクがなくなるだけで、北朝鮮の核兵器のリスク、支那の原発事故や核兵器のリスクはまったくなくなっていない。

 今、韓国は、核兵器を持とうとしているようだが、それは北朝鮮の核兵器に対する抑止力としてだろう。北朝鮮の存在によって、朝鮮半島、そして、日本も含めた極東はいまだに冷戦が続いている。

 また、先の高速鉄道事故を見ると、支那で原発事故があった場合、日本よりもはるかにオソマツな対処がなされる危険が高い。場合によっては、まるごと隠蔽されてしまい、何もなかったふりをされてしまう可能性がある。その場合、日本に放射性物質が降り注いだとしても、測定されずに終わるだろう。

 

 現状は、政治が経済を押しのけて、原発を停止させている。だが、これが反転し、経済が政治を押しのけて、原発を再稼働させる可能性もある。

 その時、現在と同じく、ロクな議論もないまま、見切り発車が行われてはならない。経済が逼迫したあげくの原発再稼働なら、おそらく安全など二の次にされてしまうだろう。

 思い込みばかり強い反核信者ではなく、まともな国民に対して、まともな議論を示し、はしょらず、丁寧に説明するなら、私たちが責任をもって原子力発電をやって行きますという側が強いに決まっている。彼らには、妙なヤラセやごまかしで、自ら身を卑しめる事なく、堂々とやってほしい。策を弄するのは、策の専門家の仕事であって、科学者や技術者の仕事ではない。

 

 手っ取り早い安全などどこにもない。原発のやめるというのは、穴に頭を突っ込んで何も見ないようにするだけの事で、現実逃避にすぎない。危険神話を信じるのは、安全神話を信じるのと等しい最も危険な態度だと思う。