攘夷の展望、あるいは人斬りの遺産


 幕末に活躍した人斬り彦斎こと、肥後熊本の河上彦斎は佐久間象山を斬った男だが、維新後もかつての同志に攘夷を迫り続けたため、新政府に対する陰謀の罪を着せられて斬刑に処されたという。

 攘夷は維新の中心思想であったが、薩長の権力奪取後は焦点を失ってしまう。人斬り半次郎こと、薩摩の中村半次郎は、桐野利秋と改名し、陸軍少将となってしまうと、西洋かぶれをし、チョビヒゲをはやし、西郷隆盛にみっともないからよせとたしなめられる始末だった。

 幕末を席巻した攘夷論は、維新後、攘夷のためには国力を蓄える事が先決だとする大攘夷論と、大攘夷論が興ったために「小攘夷」とされてしまう従来の攘夷論に分岐する。

 そもそも幕末において、尊皇攘夷派でない政治勢力はなかった。そのため、維新などといっても、所詮は薩長の権力奪取でしかないという見方も出来てしまう。しかし、河上彦斎に見るように、攘夷論は薩長権力の樹立という局面を超え、維新後も続いていた。言葉を変えて言えば、維新は攘夷において未完だった。そのため、攘夷は、維新によって始まった近代日本の基調、あるいは無意識となる。

 大東亜共栄圏を掲げ、欧米列強と戦った先の大戦は、一面において、スターリンの謀略、ルーズベルトの思惑、日本自身の領土的野心などが絡まり合い、日本を開戦に追いつめたのだが、一方の機微として東アジアに拡大された攘夷でもあった。 戦前、官僚から軍部皇道派、民間右翼、そして、おそらく民権運動にいたるまで、すでに終わったものとして維新を見てはいなかった。自らが完成させる事として維新を受け止めていた。この意識の根本にあったのが攘夷だと見ていいだろう。

 攘夷というと、夜郎自大な排外姿勢と思われているかもしれない。しかし、再び明治に目を転じ、李王朝への外交を見ると、少なくとも初期において明治政府は礼節を持ち、平和的で妥当な態度で関係を結ぼうとしている。結果として征韓論になってしまったのは残念だが、平和的な関係を求める日本に対して、取り付く島もないかたくなな態度を撮り続けたのは李朝だった。ただ、ここではその事の歴史的評価ではなく、この問題を攘夷の質を推測する材料と出来ればいい。攘夷は国家としての日本の独立自立と、他国との平等な関係を、それが平等であるからには平和的に築きあげようとするだけの質を持っていた。

 攘夷の夷とは動物の事であり、他の民族を動物に近い野蛮なものとして蔑む意味を持つ言葉だ。しかし、日本の攘夷論には、意味の転倒が繰り込まれている。つまり、野蛮な人倫にもとる行為をする者、何事も無理やりに力で押し通そうとする者を夷とする。だから日本人が外国で自ら夷となるのを戒めるだけの可能性を持っていた。

 大東亜戦争に負けた結果、日本は、アメリカを筆頭とする連合国側に、戦前の日本がすべて悪だという意識を擦り込まれた。占領する側の政策としては当然の事なのだろうが、その結果、日本は自らを卑下し、否定し、自虐的になってしまう傾向を持ってしまった。反省と自虐が違うものであるのは当然の話だが、自虐的でなければ反省した事にならないという風潮まで出来てしまった。

 戦前に悪いところがなかったはずはないが、どこからどこまで、丸ごとダメだったはずもない。そんなあたりまえの事にすら思い至らない人も少なからずいる。

 この奇妙な状態を戦後とすれば、何十年続こうとも、戦後という現象は終わる。そして、日本は維新の完成という、近代日本の根本的な主題に向きあわねばならなくなる。その時、攘夷は始末し、昇華しなければならないものとして現れるだろう。